東大女装子コンテスト設立当初のジェンダー観となんかいろいろ

去年、東大女装子コンテストが揉めた。

 

例年、東大女装子コンテスト実行委員会はミスコンステージと喫茶店企画の両方を運営していたのだが、2017年度に喫茶店企画側が団体としての独立を主張しはじめたのでややこしいことになってしまった。

 

喫茶側(と便宜上呼ぶ)は、リベラルな思想を持っているようで、フジテレビの取材に対して強く反発したのも彼らである。

フジテレビ側が折れたことで、この問題は沈静化し、じょそこんカフェの映像はまるまるカットされての放映になった。

 

騒動の一部始終をまとめると、

・フジテレビがじょそこんカフェを取材する際、タレントが「男そのままやん」「なんで女装しとるん」など発言する

・喫茶側責任者がこれらの発言を差別的だと問題視。フジテレビ側に放映をとりやめるよう文書を送る

・放映をとりやめさせるため、Twitterに投稿し騒ぎを大きくした

 といった具合だったということである。

 

で、炎上騒ぎを外から見ていた人にとっては、これで一通りの話が終わってしまうのであるが、この件でもって、喫茶側とミスコンステージ側との分裂が明らかになり、内部では更に厄介な騒ぎになったのである。

 

喫茶側がステージ側と袂を分かつきっかけになっているのが、喫茶側のステージへの認識である。

喫茶側は「じょそこんステージは女装を笑い者にする、差別的な企画だ」と考えているようなのだ。

 

しかし、東大女装子コンテストは、女装者を差別したいがために作られた企画ではない。そしてまた、女装の社会的な地位の向上やら綺麗なだけの理念のために作った企画でもない。

 

 

以下、女装子コンテスト設立者の私が、「そんなつもりじゃないんですぅぅ」という旨の言い訳をダラダラと述べる。

 

 

まず、東大女装子コンテストはミスコンテストである。であるから、女装者のセクシュアリティの問題に加えて、ミスコン自体が抱える問題点を全てそのまま抱えることになる。

 

ミスコンは性の商品化、と騒がれてから久しい。ステージに上がり美を誇ることそれ自体が、性の切り売りだというのだ。

ステージに登る人間が同意しているからOKだ、という理屈にはならない。ミスコンはあくまで世間のジェンダー観が噴出した象徴であって、女性の容姿を見世物にする構造自体が差別的だと言えるからだ。

あるいは、ミスコンは日常的に行われているから今更やる必要がない、という意見もある。外見は一目瞭然であり、試合の機会を与えられずとも、我々は目の前の人間の容貌に無意識に点数をつける。それは、ミスコンに応募しない普通の人間にも向けられる視線だ。

 

ルッキズムの象徴たるミスコン形式を導入したのは、それがイベントを成立させるのに最も簡単なフォーマットだったからだ。

そしてまた、能力主義を認める限り、美しいものが評価される社会もどこかで認めなければいけないのだろうという開き直りもあった。

 

であるから、他のミスコン開催者と同様に、これは出ない人の権利を否定するものではないですよ、と私は声を小さくして主張する。

ミスコンに出られない方がいたとして、その方が日常生活で女装することを、我々は何一つとがめるつもりはありませんよ、と。

 

 

それでも、いくつかの理念は私の中にあった。

・選抜の基準を客観的な容姿に依ること

・女装者の性別、セクシュアリティについて限定しないこと

・翌年度以降は喫茶店を開催し、女装の機会を増やすこと

 

容姿による選抜は、ミスコンの基本であるが、私は理念としてこれを徹底した。

普通のミスコンでは、容姿が一定の基準をクリアしていても、その年の審査員の顔の好みによっては落選してしまう候補者というのがいる。ただ、女装ミスコンの場合、異性装の壁を超えてまで美人だ、と感じさせる人の数がさほど多くないために、美人だけれども好みの差で落選させてしまうという問題はさほど起こらなかった。例年いちばんの美人は漏れなくファイナリストに残り、そして優勝者も容姿通りになっていると感じる。

問題なのは、見慣れだった。候補者と審査員が知人だった場合、どうしても見慣れというのが出てしまう。

男装時の顔に見慣れがあると、女装時の違和感がグッと軽減されてしまうのだ。おそらくは、どれだけ女性的になったか?という差分にばかり目が行くせいで、絶対的な点数が上手くつけられなくなるのだった。

しかし、ステージを見に来てくれるお客さんも、あるいはWeb上で写真だけを見る人にとっても、女装姿だけが候補者の全てであって、それが一目で男性的に見えてしまってはミスコンとして意味がない。

男装時の容姿をすべて考えにいれず、ただ女装の容姿を評価する、というのはわざわざ理念にしないといけないぐらいには難しいことだった。

 

先程から異性装とか男性、という言葉を用いてしまっているのが申し訳ないのであるが、女装子コンテストは参加者の性別を限定していない。

あくまで、「自分は女装子である」と自認する人物に参加資格を認めている。

結果的には大半の応募者の性自認はシス男性だったので先程のような表現になっている。

シス女性であっても女性装をする限り、それを女装と呼ぶことはできるわけで、女性からの応募があれば(実際はなかったのだが)、同様の容姿基準を以って選抜をする予定であった。

トランスやインターセックスの応募者も大歓迎であったし、「性自認は男性寄りだが、身体は女性的で、それに合わせて女性装をしている」というトランス女性(と便宜上書く)が現れた際にそれを見た目の性別で恣意的に弾くのも奇妙だと感じたのだ。

染色体や性器の検査をするわけではないし、戸籍も要求しない(あたりまえだ)。目の前の人間の性別を調べる手段がそもそも無いのに、まさか、「見た目が女性的すぎるから」という理由で落とすわけにもいかないだろう。

 

また、今回袂を分かつ理由になった喫茶店であるが、これは初年度から構想にあったものだ、という言い訳をしておきたい。

喫茶店を開く目的は2つ。一つはじょそこんステージ代を賄うため。もう一つは、容姿によらない女装機会の提供だ。

この点において、おそらく今年度の喫茶側と理念がかぶるところもあるだろうと思う。ただし、私は一方ではミスコンをやっていたわけだから、やはり差別的でないか、と彼らは感じることもあるかと思う。

ただ、本当に自分たちが能力主義と無縁に生きていられるのか、能力主義による排他を自分が行っていないか、というのは一度考えてもらいたい。

セクシュアリティの問題というのは、つまるところ古典的自由主義的な考え方を導入しなければ正当化が難しい、と私は考える。別に誰でも女装をしていいし、スカートを履きながらスネ毛が見えていようが、別に他人に迷惑をかけていないのだから本当はどうだっていいのだ。

でも、この世の中はそう簡単にはできておらず、他人に認められることで仕事が得られ、他人に認められることで恋愛や婚姻が成り立つ。

肉体が男性的であっても、誰だって女装をしていい。その理念を導入するなら、ヒゲが生えっぱなしだろうが、化粧していなかろうがいいはずだ。「でもヒゲや化粧は身だしなみでしょう」と恣意的なラインを引きたくなったら要注意。世間一般では「じゃあそもそも男の格好するのが正装でしょ」というラインが普通だ。

能力主義自由経済、そして差別は陸続きで、身だしなみを理由に就活生を落とすことができるのなら、女性装者を身だしなみが不適当として落とすこともできる危うさに気づかないといけない。

女性装は、いわゆる(私しか提唱していないが)「ババアのビキニ問題」のひとつと言えるだろう。

ビキニを着ていい歳が法律で決まってるわけではないが、それはそれとしてやはりババアのビキニはキツイので、ある程度のところで空気を読むことが求められるアレだ。

 

それから、これも喫茶側に誤解があろうと思うので書くのだが、じょそこんはそれなりの当事者団体である。

当事者団体だからといって何でもやっていいわけではないのだが、たとえば能力主義を認めるという姿勢などは、当事者が個人の幸福のために社会の現状を受け入れ順応するプロセスなのであって、何の考慮も無しに差別的構造を再生産しているわけではない、と主張したい。

 

初年度の構成員は5名だが、そのうち2名が日常女装者、1人はアニメコスプレでの女装者というメンバーだった。

一年目のファイナリストたちやその周囲の人物が中心となり、二年目以降のじょそこんが引き継がれていった。そういうわけで運営側には常に女装経験者が複数人存在したし、彼らの性指向も性嗜好も多様だった。

 

とはいえ、候補者の人種が偏る面があったのは否定しない。

ファイナリストまでは、それなりに多様なバックグラウンドを持つ人物が揃っているのだが、歴代の優勝者は皆一様にシスヘテロの男性で、学祭時だけノリで女装するというタイプが多かったように思われる。

これは容姿を基準にしたために起こる構造的問題であって、つまるところ女装して美人な男は元からイケメンなのである。

イケメンはイケメンであるがゆえに、男性社会においての高い地位を獲得し、友好関係に恵まれている。彼らは男性としての自己実現を十分に果たしており、遊びとして女装してチヤホヤされる楽しみを一時は享受しても、日常生活ではイケメンの男として生きる道を選ぶのである。

でもそれを、「彼らは女装に本気ではない」と排他する人は、多様性を認める姿勢からはほど遠いと言っておく。多様性を認めなければいけないかどうかには議論の余地があると思うが、自分が多様性を認めたつもりになってる危うさだけは知っておくことだ。

 

で、長々と書いてきたけど。

駒場祭自体がだいぶ前のことになってしまったけれど、喫茶側の責任者が

「ちなみに僕がしばらく音信不通だったのは某団体の関係者に話し合いと称して恫喝されて、救急搬送されたせいやからな、加害者の分際で何を偉そうに「そろそろ話し合いをしませんか」やねんちゃんちゃらおかしいわw顔見ただけでパニック発作やぞ、二度と僕の前に現れるな」

SNSで発言していたので、これについても否定しておく。

 

まず、責任者が救急搬送された日に私と前代表が話し合いに参加したのは事実であり、それによって彼が強いストレスを受けてしまい、意識を失い救急搬送されたのも事実である。

ただ、その言葉自体は決してキツいものではなく、人格を否定するような内容でもない。

 論点はいくつかあったが

・喫茶とステージは別団体という認識なのか

・ステージを差別的だと言うのは、前年度以前の運営や参加者たちを独善的な基準で非難されているようで、セクマイの当事者もいたのに気分が良くない

・本当に別団体を主張するのであれば、前年度からの引継ぎで渡した金を返してほしい

といった内容であった。

これを恫喝と呼ばれるのは、私の名誉を傷つけるものであって、不当だと思う。

 

喫茶側責任者が卒倒する前の最後の会話はおおむね以下のようなものだったと記憶している。

前代表「ステージ企画は差別的だっていうの」

責任者「それは僕が判断することではありません。しかし、あのステージリハーサルを見る限りは……」

前代表「僕たちの中には当事者もいたのに、それでも差別的だって思ってる?」

責任者「それは僕が判断することではありません」

わたし「いや、君は賢くて口が回る人だから、ここで差別的だと認めたら議論で分が悪いと思って黙ったでしょう。それは逃げじゃないの」

責任者「……録音してもいいですか」(と言って席を外す)

 

そしてそのまま彼は席を外したまま帰ってこなかった。

 

たとえ、大きな声で叱責されたりせずとも、自分の行動の責任を問い詰められるのが不愉快なのは理解する。誰だってそうだ。

でも、彼自身がフジテレビに抗議文を送ったり、じょそこんステージを差別的だと非難しているのも、同じぐらいには他人を不愉快にさせる可能性がある行為なんだよ、とは認識してほしかった。

彼は非常に堂々とした態度で、理路整然と話す人だったので、まさか彼と同じ程度の強さの言葉をぶつけただけで卒倒してしまうとは思わなかった。

 

彼の言葉によって他人が卒倒していないのは、私やフジテレビのプロデューサー、あるいは他の多くの人々がヒステリー発作を起こしにくい体質だからであって、彼の言葉が加害的でないからというわけではない。

 

彼は、シスヘテロの男性だし、自身が女性装することを一切考えていないようだったが、もし彼が男性の性役割からもう少し自由だったなら、倒れるほどの激情に駆られる前に泣くことができたんじゃないか、と思ってしまうこともある。

 

ま、彼がぶっ倒れたのは事実でも、会話内容が社会通念上問題にならない普通のものである以上傷害にも脅迫にも当たらないし、彼が私の言動を恫喝だと言うのも、法的に賠償責任発生させられるほどの名誉毀損にもならないでしょ。

 

ぶっ倒れる体質に、今後は配慮するけれど、相変わらず強い態度でこちらを批判してくるの、多少どうにかならないかなあ……